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1910年頃までのアルコール症(alcoholic)の治療は、療養所での長期的治療が主流であった。しかし、アルコール中毒患者を対象とした外来のカウンンセリング機関(Sprechstunde)がドイツで初めて登場したのがこの時期だったことは注目に値する。続いてオランダでも同様の機関が設立され、全国的なネットワークに発展し、現在も続いている。
1885年に初めて開催された「アルコール症に関する国際会議(The International Congres on Alcoholism)」(1995年のサンディエゴ大会が最新)においても、これまでに述べた方策が論じられてきたが、当時、ほとんどの国で、アルコール誤用対策の実際の原動力となっていたのは禁酒運動と一部の医師であった。
アルコール間題が国際的関心事であり、国際間の協力と、経験の共有が有効であるという認識が基本となって、1907年には国際アルコール対策局(International Bureau against Alcoholism(現在のICAA))が設立された、この機関の活動に対し、ノルウェーは、最初に支持を表明した。この機関は発足当初から、その目的がアルコールにまつわる問題に関わる全ての局面に関する情報の収集、伝搬であること、及び全面禁酒の原則を受け入れない者も排除しないという方針を明示していた。
第一次大戦後、合衆国その他の国が全国的に飲酒を全面禁止したことから、絶対禁酒家と反禁酒家の分極化が進み、北米ではその対立が「ウェット・ドライ論争(the Wet−Dry controversy)」という形で表面化した。専門家や一般大衆は、無関心とはいかないまでも口をはさめない状態に置かれた。
アルコール症になるほど飲むべきだとは思わないが、飲酒反対の立場にも身を置きたくないという人々が追いやられてしまった。
フランスは、ほとんど唯一と言える例外だった。1872年に設立された「アルコール症を防ぐためのフランス国家委員会(French National Committee on Defense against Alcoholism)」は、その案内、宣伝用資料では「禁酒」を強く押し出してはいたが、勤務中や運転中など幾つかの特定の場合における絶対禁酒を除いては、「節酒」程度、またはほどほどのつきあい程度の飲酒を認める立場をとっていた。
1920年代後判には、アルコールにまつわる問題を国際連盟の社会プログラムに導入しようという試みがなされた。この動きは北欧諸国の支持を得たが、ポルトガルやフランスなどワイン生産国はこの動きが経済的脅威となることに加えて、自国の文化には相容れない「禁酒」の立場を推すものであると解釈した。その結果、アルコールに関する問題は、1946年、世界保健機関(WHO)が初めて取り上げるまで、国際舞台で前向きに検討されることはなかった。
米国で「禁酒法」が撤廃された1930年代には、アルコール症を病気と考える概念が見直され、勢いを得た。「合衆国アルコール症評議会(The USNational Council on Alcoholism)」はこの概念を基本とした機関であり、絶対禁酒の概念に基づくものではない(アルレコール中患者の場合を除く)。この概念に基づくアプローチは「ウェット・ドライ論争」で蚊帳の外に置かれていた多くの人々の注目を集め、同じく1930年代に発足した「アルコホリック・アノニマス(Alcoholics Anonymous)」の主旨にも合致するものであった。
WHOのプログラムにアルコール症の問題が導入されたことで、アルコール症を健康上の問題として理解する動きが加速した。特に、それ以前はアルコール症を病気として認識しなかった

 

 

 

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